一番安い棚に手を伸ばすとき
ウイスキーの棚の前で、一番下の段や端っこに、たいていトリスはいます。700mlで1,000円を切る、コンビニ弁当を二つ買ったくらいの値段。
正直に言うと、その棚に手を伸ばすとき、少しだけ後ろめたい気持ちになる人は多いはずです。「もう少しいいやつにしたほうがいいかな」と一瞬迷って、でも結局、黄色いラベルのこの一本をカゴに入れる。
ところが、その「一番安い一本」には、日本のウイスキーがどうやって庶民のものになったのか、その歴史がまるごと詰まっています。トリスを知ることは、戦後の日本人がどんな気持ちでウイスキーを飲み始めたかを知ることでもあります。
棚の隅のこの一本を、少しだけ見直してみましょう。
「トリス」という名前は、創業者の名前だった
まず名前です。トリス(Torys)と聞いて、何かの英単語だと思っていた人も多いかもしれません。
これは、サントリーの創業者である鳥井信治郎(とりい しんじろう)の名前から来ています。「鳥井の」を英語風にすると「Tory’s(トリス)」。つまりトリスとは、創業者が自分の名前を冠した、いわば看板を背負った一本です。
ちなみに「サントリー」という社名も、この鳥井から来ています。よく晴れた空を意味する「Sun(サン)」と「鳥井(トリー)」を合わせて「サントリー」。トリスとサントリーは、同じ名前から枝分かれした兄弟のような関係なのです。
そしてこの名前には、もう一つ逸話があります。鳥井がまだ洋酒で身を立てようとしていた頃、海外から仕入れた原酒が粗悪品で、とても売り物にならなかった。仕方なく葡萄酒用の樽に入れて放置していたところ、数年後にそれが琥珀色のウイスキーへと熟成していたといいます。これを「トリス」として売り出すと、見事に売り切れた。この成功体験が、のちに国産ウイスキーづくり、そして1923年の山崎蒸溜所の建設へとつながっていきました。
トリスウイスキーが本格的に世へ出たのは、戦後すぐの1946年です。いまも瓶の肩の部分には「1946」という数字が浮き彫りで刻まれています。手に取ったら、ラベルの横あたりを指でなぞってみてください。棚の隅にある一番安い一本が、実は焼け跡の時代から日本人と一緒に歩いてきた——そう考えると、見え方が少し変わってきます。
ラベルのおじさんは、誰が描いたのか
いまのトリス クラシックのラベルをよく見ると、赤い襟の服を着て、頭のつるりとした男のイラストが描かれています。丸い鼻に細い目、どこか力の抜けた表情。これが、アンクルトリス(トリスおじさん)です。イラストの脇には「Ryo.」という小さなサインが添えられています。
このキャラクターが登場したのは1958年。東京タワーが完成したのと同じ年です。テレビが各家庭に入り始め、日本が「これから豊かになる」と背伸びをしていた時代に、彼は生まれました。
「Ryo.」のサインの主は、イラストレーターの柳原良平(やなぎはら りょうへい)。当時、寿屋(ことぶきや。現在のサントリー)の宣伝部には、のちに作家として知られる開高健(かいこう たけし)や山口瞳(やまぐち ひとみ)といった、錚々たる顔ぶれが揃っていました。アンクルトリスは、柳原が開高とアイデアを出し合いながら生み出したキャラクターです。
なぜ、これほどの才能が一つの安いウイスキーの宣伝に集まったのか。それは当時、ウイスキーが「特別な人の飲み物」から「普通の人の飲み物」へ変わろうとしていた、その最前線がトリスだったからです。気取らず、ユーモラスで、誰の隣にもいそうなアンクルトリスは、その変化そのものを体現していました。
「トリスを飲んでHawaiiへ行こう」が意味したこと
トリスの歴史を語るうえで外せないのが、1961年に始まった「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」というキャンペーンです。
今でこそハワイは数万円で行ける旅行先ですが、当時は事情がまったく違いました。日本人の海外旅行が自由化されたのは1964年。つまりこのキャンペーンが始まった時点では、一般の人はそもそも自由に海外へ行くことができなかったのです。そのため1等の賞品も「ハワイ旅行」そのものではなく、「ハワイ旅行の積立預金証書」という形を取りました。当選者が実際に飛び立てたのは、自由化された後のことです。
行けるかどうかもわからないハワイを、賞品として掲げる。それでも人々は夢を見ました。トリスを一杯飲むことが、まだ見ぬ南の島へのささやかな切符に思えた時代があったのです。
街には「トリスバー」と呼ばれる手頃なウイスキー酒場が増え、サラリーマンが仕事帰りに一杯やる。安いウイスキーが、頑張る人たちの日常に寄り添っていました。トリスが背負っていたのは、ただの安さではなく、「自分たちもいつか」という上向きの気分そのものでした。
今のトリスと、選ぶ理由
現在、店頭でよく見かけるのはトリス クラシックです。アルコール度数は37%と、一般的なウイスキー(40%前後)よりわずかに低め。炭酸で割って飲むことを前提にした、ハイボール向きの度数設定です。価格は700mlで1,000円前後。毎日の晩酌に気兼ねなく開けられる一本です。
もう一段上を選ぶなら、バーボン樽の原酒を加えたトリス エクストラ(40%)という選択肢もあります。容量も180mlの小瓶から、4リットルの大型ペットまで揃っていて、「まず試したい」人にも「毎晩ハイボールで飲む」人にも応えてくれます。
トリスが向いているのは、こんな人です。
- 銘柄の格や見栄ではなく、肩の力を抜いて毎日飲みたい人
- ハイボールが日々の定番になっている人
- ウイスキーをこれから飲み始める、最初の一本を探している入門者
高い一本を選べば失敗しない、というわけではありません。トリスのよさは「気負わなくていい」ところにあります。一番安い棚の一本だからこそ語れる物語を知っておくと、次にこの黄色いラベルを手に取るとき、少しだけ誇らしい気持ちで開けられるはずです。
同じく「安くて毎日見かける定番」の物語は、こちらでも読めます。
→ ブラックニッカのおじさんは誰?
→ サントリー角瓶——88年分の物語
→ ウイスキーの飲み方5つ
🎁 プレゼントを探している方へ: ウイスキーのプレゼント、失敗しない選び方で、味がわからなくても相手に合う1本の選び方を解説しています。
※20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。
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